基調
―「危機」の時代の天皇制を問う! 2・11反「紀元節」行動
・はじめに
3・11以降、明仁天皇は「ビデオメッセージ」をいち早く発し、天皇一族は「精力的」に被災地を訪問して、被災者の「慰問」と死者の「鎮魂」をおこなってみせた。これらの、一連の天皇のパフォーマンスは、悲しみに暮れ、奪われた暮らしを再建したいと望む人びとの切実な感情に「寄添う」天皇というイメージで、最大限演出されていった。
しかし、国家が上から与える「癒し」とは何ものであるのか。3・11以降の政治の中で、被災者は分断され、「復興」の掛け声の中で多くが「棄民」化させられている。天皇一族が果しているのは、そういった状況を隠蔽し、責任者を名指すことを回避し、被災者に我慢を強い、さらに原発再稼働という政治意思に示されているような震災前の「秩序」へと、社会を再び統合していく役割でしかない。そしてそれは、今年の3・11に政府主催で行なわれ、天皇も出席する予定の「東日本大震災一周年追悼式」においても、ふたたび展開される政治であるに違いない。
いまも続く日常である原発災害に行き着いた戦後日本国家の責任を、われわれは繰り返し追及し続けていかなければならない。そういった行為を通じてしか、3・11以前とは異なるかたちで社会を展望することはできない。3・11がもたらしたこの危機的な状況の中で、「日本」なる共同性が、人びとを包み込む論理として喧伝され続けている。われわれは、本日の反「紀元節」行動を、こうした戦後日本国家の行き着いた地点としての現在を問題化する立場から、取り組んでいきたい。
・2・11をめぐる右派動向と「ハシズム」状況
1966年(適用は六七年)以降、2月11日は「建国記念の日」とされた。それは神武天皇の建国神話にもとづく、戦前・戦中の「紀元節」の復活にほかならない。それゆえにこの日は、天皇主義右派勢力にとって、最大の祝日であり続けている。例年この日には、神社本庁、日本会議などでつくる「日本の建国を祝う会」による「建国記念の日奉祝中央式典」が明治神宮会館で開かれ、表参道から明治神宮にかけての奉祝パレードも行なわれてきた。一方で、政府主催の式典やイベントは、自民党政権時代の2006年以降中断されたままである。
このことに明らかなように、現人神・神の国イデオロギーといった復古主義的なスタンスでこの日を積極的に位置づけ、奉祝していくという方向性は、この国の支配層が採るところではなくなっている。それは何よりも、進行している天皇制の強化が、かならずしも天皇の政治的権能の、ストレートな強化とは別の部分で進んでいることと対応しているだろう。
しかし、それは社会全体の「右傾化」状況と矛盾するものではない。流動化する社会状況の下で、在特会などの「市民派」の排外主義右翼勢力は依然として蠢動を続け、従来の動きに加えて、反原発運動に対する敵対行動にも出ている。朝鮮学校無償化問題など、さまざまな機会をとらえては噴出する排外主義は、もはやこの社会全体の支配的ムードでさえある。
そういった社会的な雰囲気にうまく乗って、大阪市長選・府知事選における橋下ら大阪維新の会は、圧倒的な支持を受けてダブル選挙を勝ち抜いた。「ハシズム」とも呼ばれるその政治姿勢は、きわめて強権的なものである。マスコミを利用しながら、仮想敵を作り出してはそれに執拗な攻撃を加える手法は、あたかも彼が既得権益にあぐらをかく特権層に挑む「改革派」であるかのようなイメージを与える。それを人は、閉塞状況を打破してくれる存在とみなすのだ。それはわれわれに小泉政権を想起させる。橋下らの動きに乗って、既存の右翼政治家たちによる「石原新党」への動きも見せている。右派勢力のある種の再編動向についても、われわれは注目しておかなければならない。
橋下にとって、さしあたっての仮想敵は、公務員や教員である。昨年六月、大阪府議会は学校行事において教職員の「君が代」起立斉唱を義務づける「国歌起立条例」を成立させた。さらに、「職務命令違反三回」で分限免職を可能にする「教育基本条例案」も提案されている。大阪市議会でも同様の法案が準備中だ。
この「分限免職」については、東京都教育委員会から懲戒処分を受けた教員らが処分取消を求めていた訴訟で、1月16日の最高裁判決によって、見直しを迫られると思われたが、一部修正のうえで押し切ってしまった。この最高裁判決とは、東京「君が代」裁判(第一次)および、根津・河原井裁判である。最高裁は戒告処分までは容認した上で、それ以上のものについて「裁量権の範囲」を勘案するという判決だ。これに基づいて減給処分や停職処分の取消もなされたが、根津さんの停職処分に対しては「過去の処分歴に係る一連の非違行為」により容認した。「処分」そのものは適法であり、処分歴を問題とするまさに「分断判決」であった。
橋下が盛り込もうとしているのは、そうした最高裁判決のなかの「歯止め」すら逸脱するものである。この強硬姿勢はどこから来るのか。橋下は、不起立教員への処分について「組織マネジメントの問題」と発言している。彼が「日の丸・君が代」にこだわるのは、「日の丸・君が代」が、彼にとっての仮想敵をあぶり出すからである。公務員は黙って「命令に従うこと」が当然、反対する奴は職場を去れ。それこそまさに、法制化以前から学校現場で進められてきた「日の丸・君が代」強制の図式であって、「日の丸・君が代」のもつ暴力的な本質にほかならない。
内心ではどのように思っても自由だが、「外形的」には「日の丸・君が代」に敬意を示すのが礼儀であるというのが強制する側の論理である。そうした思考を内面化するとき、権力や秩序へのタブー意識は「自発的」な翼賛となるだろう。そうした状況が、確実にこの社会を広く覆いつつある。そして「がんばろうニッポン」、家族主義的な日本社会の「紐帯」や「絆」という、それ自体実際には同質的で排外的な共同性でしかないものが、なにか「美しい」ものであるかのように謳われ、そこに自ら統合されていく。そして、その共同性に異を唱えるものは排除されていく。そして天皇制とは、「慈愛」による包摂と暴力的な排除のひとつの分断線を引き、息苦しい日本社会のあり方を肯定して制度的に保証し続ける、日本固有の政治的なシステムなのである。
・戦後から続く「危機」
日本は敗戦後、連合軍(アメリカ)の占領を経て「独立」したわけだが、戦後すぐに始まった冷戦構造の渦の中、アメリカの世界戦略の流れに組み込まれ、その後の日本の方向性が確立していった。政治的な権限などないはずの天皇も、長期にわたる現在的な米軍の沖縄駐留を希望するメッセージを、政府の頭越しにアメリカの国務長官クラスに送るなど暗躍し、安保体制の枠組みを作りだした。その結果、現在、在日米軍基地の七五%が沖縄にある。アメリカの軍事的戦略のなかに沖縄が組み込まれていることも、自衛隊と米軍との関係も、今日の社会的枠組み・システムの基礎は戦後のアメリカ、日本の権力者、そして天皇によって作られていったと言える。原爆を落とされた日本が、アメリカの核安保戦略のもとで行われた「核の平和利用」キャンペーンによって、54基もの原子炉を持つ原発大国化が進んだのも、こういった構造の上になりたっているものである。
今年になって野田政権は増税案を可決すべく内閣の改造を行った。昨年の原発事故からまもなく一年、事故の処理はなにひとつ満足な解決をみていない。福島県はもとより、それ以外の地域でも至る所に被害は及んでいる。被害者は当たり前の暮らしを取り戻すことさえまだできていないし、そのための賠償問題も遅々として進んでいない。今の政府が考えているのは、「原発再稼働」と「原発輸出」である。そのために収束宣言をだし、「ストレステスト」というアリバイ的な手続と、密室による評価会議をしている。できもしない「除染」作業も、それらを推進するためのカモフラージュにすぎない。
アメリカではスリーマイル事故以降、新しい原発の建設は行われていない。アメリカの企業は日本の原発メーカーがライセンス料を支払うことによって、その技術を維持してきた。だから、日本の企業が海外に原発を売ることは、アメリカにとっては大きな利益拡大になるのだ。
今回の事故で、世界的にも「原発」の安全性は厳しく問われ、建設が容易ではなくなり始めている。昨年の末に、日本の原発輸出を可能にする協定をヨルダン、ベトナム、韓国、ロシアの4カ国と結んだ。野田政権は、この審議の際に「福島の教訓や知見を国際社会と共有することは、われわれ日本の責務だ」と述べた。その一方で「事故後も日本の原発を求めてくる国があるなら、最高水準の安全性を有する(日本の)技術を提供していく」とも述べ、原発輸出を継続していく考えを明確にした。原発事故はまだ何一つ収束していないのだ。原因究明も事故の検証もされていないのに、「福島の教訓や知見」はどこからくるのか。目先の利益と、アメリカの核戦略による恫喝に屈していくのか。原発はどこにもいらない。日本だけではなく世界のどの国にも。その声を来月の大震災・原発事故から一年めの日に、大きくあげたい。
沖縄の普天間飛行場は敗戦前に米軍によってつくられ、それ以降ずっと米軍基地としてある。この普天間飛行場の名護市辺野古への移設をめぐって、アメリカとヤマト、沖縄の協議は長く続いているが、ここにきて事態が動き出している。2月8日に米軍再編計画の見直しが発表され、「普天間飛行場の返還・移設と在沖海兵隊のグアム移転、嘉手納より南の基地返還の“パッケージ切り離し”」が発表された。これに対して野田首相は普天間基地の辺野古への移設は堅持する考えを強調している。普天間基地が固定化されていく事態が懸念されるが、問題発言連発の田中直紀防衛大臣は「私に任せて」と固定化回避へ決意表明している。しかし、今までも本土(ヤマト)の為政者は、「安全保障」のために米軍にいていただきたいのだ。交渉ごとではなく、アメリカの要望を聞いているにすぎない。沖縄の人びとの声を無視し続けていくつもりなのだ。アメリカのワシントンポスト紙(電子版)に、普天間飛行場の即時閉鎖と辺野古移設反対を訴える意見広告が掲載された。固定化反対だけではなく、「基地はどこにもいらない!」の声を大きくあげていこう。
野田政権は昨年一一月に陸上自衛隊施設部隊300人の南スーダンPKO参加を決定、一月末には第一陣が小牧から飛び立った。しかも、一二月に「武器輸出三原則」の緩和を発表し、・平和貢献・国際協力に伴う場合、・日本と協力関係がある国との国際共同開発・生産に関する場合は、輸出が認められる、ということになった。自衛隊は米軍を後押しし、今後の海外での軍事的な存在感を強めていきたいのだ。PKOに持ち込む装備品には戦闘に使う武器も含まれている。今回の「三原則」緩和で、それらを提供してしまうことができるようになったのだ。いくら「目的外使用」を禁止したところで、そもそも武器なのだから、自衛隊が撤退した後は、普通に武器として使われるのは当たり前のことであろう。今後も続くであろう南スーダン派兵に反対し、「武器輸出」にも反対していこう。
「武器輸出三原則緩和」の先に見えるのは、「改憲」である。もっと自衛隊が海外に出かけ、紛争そのものに介入できるようにしたい。田中防衛相が間違えたという、「PKO参加五原則」では「武器使用は自衛限定」「紛争当事者間の停戦合意」が前提になっているが、さらにもっと積極的な活動ができるようにしたいのだ。集団的自衛権の行使、自衛隊が米軍の指揮下で自由に動くには、憲法九条は邪魔なはずである。「改憲」論議にも気をつけていかなければならない。
また、TPP交渉参加にむけた関係国との事前協議が始まった。政府の方針は「原則、すべての品目を交渉対象にする」とのことだ。日本独自につくってきた各業種のシステムが、このTPPに参加することによってどのような変化をもたらすのか、未だに不明な点が多い。これもアメリカの世界戦略の一環だと考えれば、日本は諄々と従っていくのか。
資本主義大国のアメリカの勢いが少しずつ翳りをみせている。ヨーロッパの経済危機の流れもある。そういった世界全体の流れのなかで、戦後からずっと続いているずるずるの「危機」が今ここで大きく姿を現しているのだ。この「危機」を変えていくための行動をしていこう。
・天皇Xデーと「女性宮家」構想問題
天皇・皇后は、先述したとおり、ともに70代後半という高齢をおして、3・11以降、東北・関東周辺の被災地・被災者への「慰問」を繰り返すハードスケジュールを精力的にこなした。しかし一方で、天皇は肺炎で入院し、皇后も頸椎症性神経根症を引き起こすなど、体調を崩す事態も繰り返した。メディアは高齢で「激務」に従事する天皇らを礼賛し心配する報道を繰り返していたが、その裏ではXデー準備体制に入っているとの噂もきく。実際、昨秋以降の皇室報道の内容は大きく変わった。
秋篠宮は誕生日の記者会見で、天皇の仕事について「ある年齢で区切るのか、どうするのか、というところも含めて議論しないといけないのでは」と述べた。いわゆる天皇「定年制」発言だ。この超法規的で政治的な発言への批判は当然としても、数多くある天皇たちの違憲の「公務」を誰かが担わなくてはならない時間帯に入っているのも事実だ。また、皇太子妃雅子は病気が続き、次期皇后を担えるのかとの不安の声はさらに大きくなっている。そのような事態にあって、昨秋は、皇族の減少問題が大きく取りざたされた。
皇位継承者問題も、依然、不安定な状態にある。皇太子よりも若い皇位継承者は、さして若くない皇太子の弟秋篠宮とその息子の悠仁だけなのだ。しかしそのことよりも、若い皇族が女性ばかりで、しかも八人中六人はすでに成人し、結婚の可能性があることを緊急の課題として宮内庁は騒ぎ始めた。女性皇族は結婚と同時に「臣籍降下」で皇族から離れ、近い将来、残る宮家は秋篠宮だけになることが必須だからだ。天皇夫婦は高齢だし、皇太子妃雅子は病気である。「公務」を誰が担うのか、という心配だ。そこで出てきたのが「女性宮家」構想で、女性皇族に宮家を持たせ、皇室にとどまらせることで皇族減少を食い止めよう、というのだ。昨年成人した秋篠宮の娘眞子への期待は大きく出てきている。
昨年10月、羽毛田信吾宮内庁長官に「緊急性の高い課題」として対策を要請されながも対応が鈍かった政府だが、一二月を境に急ピッチで動き始めている。政府内部の学習会もすでに一二月には始まっているし、今秋の臨時国会で「皇室典範改正案」の提出を目指すとまで言っている。新聞・雑誌には天皇家の家系図を示す記事などがあふれ、さまざまな憶測も含めた言説が流れ始めている。
皇位継承問題や皇族の減少は、天皇家と天皇主義者、および天皇の政治利用が当たり前の政財界にとっては一大事であろう。だが圧倒的多数の人間にとっては他人事でしかない。それが国家の危機のごとく報じられ、大まじめに論じられる。天皇一族が日本社会に不可欠の存在で、この社会の「文化・伝統」を代表し、権威の頂点に立っているとの錯覚は機会あるごとに再生産されるが、この「危機」を論じること自体もその機会の一つとして機能するのだ。このような言論状況に対して私たちも声をあげていかなくてはならない。
家柄や身分、男系主義世襲制を基軸とする「文化・伝統」を代表するのが天皇である。およそ平等や民主主義とは無縁の存在だ。そのような天皇を崇拝する一握りの天皇主義者らは、女系天皇への道を開くものとして「女性宮家」に反対し、男系を守るために旧皇族の養子縁組や、女性皇族との婚姻を提唱するなど、グロテスクの極みともいうべき言論を展開している。しかし、圧倒的多数の天皇制容認層はそうではなく、この間の「慰問」と「鎮魂」に励む天皇、あるいは外交や渉外活動にいそしむ天皇一族など、根拠など不要の超越した存在である天皇一族を無根拠に肯定しているのだ。おそらく「女系」も「女性宮家」も無条件容認が多数となろう。
政府は一部の右翼の反発をかわすために、「女性宮家の創設に限って議論する」としている。宮家当主である女性皇族が結婚した際の夫やその子どもの身分、皇位継承権の有無、等々はいったん棚上げし、既成事実を積み上げていくつもりなのだ。2005年の「皇室典範に関する有識者会議」当時はまだ悠仁は生まれておらず、後継者問題は切実で、皇太子の娘愛子を筆頭とする「女性天皇」論議が中心だった。社会全体の愛子や雅子への期待もあった。それでも右翼の反発は強固だったのだ。三代目の男系継承者・悠仁が存在するいま、その前提条件が大きく異なる状況下の「女系天皇」につながる「女性宮家」構想である。難航は覚悟の上で、政府は男系主義者との調整も含め、検討を始めたということだろう。
「女性宮家」構想をめぐっては、リベラルを装う言論も含め、さまざままな言説がでてくるだろう。だが、いずれもそれぞれの立場で天皇制の安定存続を言い合っているに過ぎない。宮家を立てるだけで3050万円、配偶者には1525万円、子供が生まれれば、男子には305万で女子213万5000円、成人すればその倍。労働とは無関係にこれだけの収入を得る特権階級であり、これを身分差別といわず何というのか。天皇制に反対する論理は山ほどあるが、いまはとにかく「税金を天皇制のために使うな!」の声を上げたい。目の前の課題や政府の責任を隠蔽するためにこそ存在する天皇一族であり、家柄や身分、男系主義世襲制を大事な伝統とする一族である。そんな制度維持のために金と時間を使わせてはならない。声を大に訴えていこう。
・最後に
これまでの報告にあるように、昨年3・11以後天皇をはじめとする皇族は、被災地訪問を繰り返した。その集約点として「震災」から一年の今年3月11日、政府主催の東日本大震災一周年追悼式を国立劇場で天皇・皇后出席のもと行う。自然災害による追悼式を政府が主催するのは初めてである。報道によると、当初被災地での開催も検討したが、警備上の問題などから東京で開くことになった。参加者は、天皇・皇后や首相をはじめ三権の長、遺族代表、ボランティアら民間代表ら約一二〇〇人で、午後二時半開始、震災が起きた午後二時四六分から一分間の黙祷をおこなう。被災自治体で同時刻に開催する式典と中継して一体感をもたせる。また、同時刻に広く追悼を呼びかける首相談話も発表される。
政府主催の追悼式は、震災や原発被害を天災による「国難」と置き換え、「復興」=「国益」のため「国民」一丸となってあたる「国民」意識づくりのための式典である。これこそ象徴天皇制の国民統合の装置である。これまで安全として原発を推進してきた歴代政権や東京電力など電力独占の責任を問わず、「復興」のためには、放射能汚染被害も消費税を始めとした大増税や社会保障の切り捨てなども「国民」として等しく受忍し、「六ヶ所再処理工場など核施設や「原発」の再稼動、原発輸出にむけた出発点としようとしている」。まさしく、戦後を「平和と繁栄」の社会とし、戦死者をその犠牲者と演出する8・15「全国戦没者追悼式」と同質の攻撃である。侵略戦争の最大の責任者である天皇が戦争責任もとらずに「国民」と共に黙祷をし、天皇制の戦争責任を隠蔽しているのだ。
3・11天皇出席の追悼式に反対し、一斉黙祷を拒否しよう。六ヶ所再処理工場や原発の再稼動を阻止しよう。
さらに、自衛隊の外国派兵が拡大される中8・15闘争も重要である。靖国神社や「全国戦没者追悼式」への批判を深めよう。
今年は沖縄「復帰」40年にあたる。野田政権は、本年中の辺野古新基地建設着工をめざすなど、沖縄のさらなる日米軍事基地化をすすめ、同時に八重山地区への侵略戦争賛美教科書強要など新たな皇民化攻撃をかけている。そうした情勢下で「沖縄の日本復帰」40年記念事業として天皇制行事「全国豊かな海づくり大会」が、今年11月18日糸満市(沖縄)で開催される。
「全国豊かな海づくり大会」は、明仁即位後天皇制行事に格上げされ、水産資源の維持培養と海の環境保全を目的としているが、一九九五年戦前の「海の記念日」を復活・制定した「海の日」とともに今日的な「海洋国家日本」にとっての重要な行事である。
「全国豊かな海づくり大会」に対して、浦添市の海人(うみんちゅう)は、「沖縄での海づくり大会は、洋上軍事演習と沿岸域の埋め立ての禁止・赤土流出を止めることを大会のテーマとし、目的とすべきである」(「琉球新報」11/5/22)と述べている。今まさに辺野古・大浦湾を米軍基地のために埋め立てようとしている沖縄での「全国豊かな海づくり大会」の欺瞞を許さず、天皇制の戦争責任を追及し、天皇の沖縄訪問を阻止しよう。さらに来年の「全国豊かな海づくり大会」は、熊本県・水俣で予定されている。水俣は、新日本窒素肥料(現チッソ)による海洋汚染で公害病(水俣病)を発生させ、チッソや政府は今なお責任をとらず、多くの被害者が今なお苦しみ続けている地である。政府は、水俣病被害者救済特別措置法の申請を三月末打ち切りから七月末に延長した。患者会の「切り捨てだ」との抗議で延長したが、申請を打ち切り、「水俣病」を過去のものとするために「全国豊かな海づくり大会」が行われることはあきらかである。
最大の天皇制行事である国民体育大会(以下『国体」)は、今年は9月29日から 第67回国民体育大会(ぎふ清流国体)が行われ、来年東京で予定されている。「スポーツ祭東京2013」(第68回国民体育大会・第13回全国障害者スポーツ大会)で、9月28日味の素スタジアムに於いて天皇・皇后出席の総合開会式が行なわれる。「東京国体」は、その開催目的の一つにスポーツの力で被災地を支援する、を加えた。
スポーツ交流や行事開催時に被災地の特産品を紹介するなどであるが徹底して天皇制行事に「被災地」「被災者」を利用しようというのだ。すでに東京国体開催への準備は着々とすすめられているが、遅くなったとはいえ天皇制翼賛行事の国民動員の一つ一つを明らかにし、闘いを準備しなければならない。
さらに、第63回全国植樹祭(育む いのち)が山口県で5月27日に行われる。天皇制三大行事への批判を深めよう。
3・11は、核・原発政策を推進する戦後の「平和と繁栄」の欺瞞を明らかにした。だから私たちは、象徴天皇制の戦争責任・そして今日の核・原発大国をつくりだした責任を追及しよう。